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「オタク」属性主人公論 【弱虫ペダルとシンカリオンの感想】

■ ○○オタであるというキャラ属性

キャラクターが出てくるコンテンツ(=アニメとか)において、作劇上、魅力あるキャラクターにするためには、 何らかの弱点を持たせるべき という鉄則があります。

凄腕の暗殺者だけれども、猫を見るとかわいがってしまう、 というような。


その弱点が原因で窮地に陥る、 というストーリー上の要請からだけではなく、読者・視聴者にとって、そのキャラクターが自分と同じ側の人間であると感じるために、 価値観を部分的にせよ共有させることが主な目的です。

 

往々にして、物語の登場人物は、読者・ 視聴者とは異なる考え方で行動します。

地球の敵と戦ったり、 スポーツで頂点を目指して鍛錬したりする訳ですから、一般の読者・ 視聴者とは決定的なところで価値観がズレてしまうのは致し方ありません。

我々凡百の一般人としては共感しづらいキャラクターになってしま いがちです。

したがって、読者・ 視聴者の感情移入の依りしろになるべきキャラクターの演出を行な うにあたっては、読者・視聴者に「こういうところは私と似ている/納得できる」 と共感してもらい、感情移入してもらう必要があります。

 


ここまでが前提。

 


近年、この手のキャラクター設定に「重度の○○オタクである」 という属性を持たされた主人公が増えてきているように感じます(今期シンカリオンを観てて、 弱ペダを一気に観たちょうどこのタイミングが変異点である可能性 は否定しきれないですが)。

 

さて、この「重度の○○オタクである」という属性。
いくつか検討しておきたい問題を秘めてはいないか、ということで、軽く考察を試みてみたいなと。

 

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本稿では、「シンカリオン」と「弱虫ペダル」の事例を引いて、主人公の特徴的な属性として「(重度の)○○オタクである」 ことについて論じてみたい。

■ オタであるということは、「性格」ではなく「ライフスタイル」 である

ここで、ひとつ着目しておくべきは、「○○オタである」 という属性は、身体的特徴でも、 思考の独自性という意味での性格でもない。
○○という趣味に重度に傾倒している、 というライフスタイルがキャラクター属性になっているのだ。

これは何を意味するか。 何らかのオタクを自認する諸兄には自明のことと思われるが、
これは、取りも直さず、「 人生におけるリソースの少なからぬものを趣味に投じている」 ということである。
そして、この場合の投資物とは、ほとんどの場合「時間」である

オタレベルが高ければ高いほど、裏でそのレベルに見合った「 時間」を消費している、 という設定面の裏側にまで想起せずにはいられないのだ。

-「小学生」設定のヌルさとシンカリオン

さて、「シンカリオン」において、主人公・速杉ハヤトは「重度の鉄道(・新幹線)オタク」の少年として描かれる。

日常生活において彼が新幹線知識を涵養している時間は、 戦闘訓練等に代替可能なものである。
つまり、「シンカリオンに乗って戦う」 という彼の主なミッションに対して、一生懸命ではないのだ。
少なくとも、速杉ハヤトは彼の総てを賭けて戦っている訳ではない。
シンカリオン」という作品において、パイロットたる「適合者」 たちの日常は普通の小学生のそれとさほど変わらない。
超進化研究所の大人たちの、 古典的でブラックな労働環境との対比においては、明確に「ホワイト」な待遇である。
待遇がホワイトなればこそ、「重度の新幹線オタとしての速杉ハヤト」が成立するのである。

加えて、彼らは、新幹線が変形するロボットを操縦して、敵と戦うことを任務としている。
これは、相当程度に主任務と趣味としてのオタク分野が一致していると捉えることができる。
冷静に考えれば、新幹線知識がロボットによる戦闘においてどれだけ寄与するかは甚だ疑問であるが、演出・作劇の宜しきを得て、 シンカリオンではそれがさほど表出されない。 新幹線オタとしてのレベルを高めることが、「 シンカリオンに乗って敵と戦う」 ことの訓練として寄与しているかのような錯覚さえ覚えさせるのである。


シンカリオン」における、新幹線オタであるということと、 何らかの使命を背負う者であることのかみ合わなさは、 この二点において巧みに糊塗されていると言える。

 

-部活モノとしての弱虫ペダル

視点を転じて「弱ペダ」である。主人公・小野田坂道くんは重度のアニオタである。
彼の場合、佐倉あたりからロクに進まないママチャリで秋葉まで毎週往復していた、というアニオタならではの基礎鍛錬が、ロードレースというフィールドにおいて開花したという立て付けに なっている。
彼は、晴れて自転車競技部に入部し、メキメキと頭角を現し、インハイ優勝まで成し遂げてしまうわけだ。
しかし、彼は「アニメ好き」はともかく、アニオタとしてのレベルの維持・涵養にも余念がないのだ。
それまでと同様に、小野田坂道はアニメに金と時間を費やしているのである。自転車競技という金のかかる競技に自らの本道を見出しているにも かかわらず、だ。

これは、従来型スポコン物からの大いなる逸脱である。
局地的には猛練習の様子が描かれてはいるが、 本質的に小野田の練習量は大したことがないのである。

劇中においても、注意深く観てみると、小野田の「強さ」の源泉として、「努力」や「練習量」が挙げられることは無い。
彼の強さは、ママチャリで鍛えたケイデンスという身体的な素質を除けば、専ら「オーダーに応える」や「一歩一歩進む意志の強さ」という、精神的な強さ(もしくは性向)として語られる。
箱学メンバーや手嶋の強さにおいて「努力」「練習量」というキーワードが頻発するのとは対照的だ。

小野田坂道は、そのキャラクター像から「天才型」「エリート」といったイメージを抱きにくいキャラクターである。
しかし、「努力」「練習量」をその強さの源泉とする強敵たちを、 ロード初心者が「素質」「意志力」といった「日々の積み重ね」 とは直接的には関連しない要素で打ち負かしていくのだ。
小野田のライバル・真波山岳こそが天才型に見える。しかし、彼もまた努力型である。授業をサボってまで自転車で山を登っているのだ。時間の割き方が尋常ではない。

弱虫ペダル」とは、言わば「才能」で「努力」を蹂躙していく物語とも言える。

持てる小野田が持たざる努力家たちを蹂躙していく。そんな構図の物語を、「重度のアニオタであるロード初心者」 という設定が、あたかもその逆であるかのように見せている。
弱虫ペダル」では、ふんだんに回想シーンを用い、 ライバルたちの「過去」を語る。彼らが何故、自転車に乗るのか。何故ロードで勝たなければならないのか。
一方で、坂道の過去は全く語られない。当然である。アニオタとして生きてきた訳であるから、自転車やロードレースに対する思い入れがないのである。

奇しくも手嶋が語るように、才能のない者は努力するしかない。 経験とは、凡才が唯一積み上げられるものである。

 


「ロードレースに青春を賭けた若者たちが、天才・小野田坂道に、いかに敗れていったか」


これが弱虫ペダルの主題である。小野田坂道という天才を軸とした青春群像劇なのだ。

天才・小野田坂道を主人公に据えて作劇する訳だから、一片たりとも坂道を「悪者」にしてはならない。
彼のパーソナリティはイラつかないギリギリの線で卑屈(謙虚というには坂道のそれは卑屈すぎる)であり、 しかし素直であり、そして明るい。

重度のアニオタであるという設定は、彼を「良いヤツ」 と大いに示す属性でもある。
しかし、冷静に考えると小野田坂道という天才の、 天才性をも同時に示している訳だ。

 「弱虫ペダル」は、構造的に捻れを抱えているのである。

 

 

 

まぁ、面白いからそんなことはどうでもいいのだけれども。