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ゲームとかの話

ゲームを中心としたヨタ話

スマホゲーにおける「プレイヤーレベル」と「スタミナ」「デッキコスト」


まえがき

多くのスマホゲーは、アカウントに紐づいた「プレイヤーレベル」と呼ぶべき指標を導入している。パズドラやモンストにおける「ランク」に該当する。
プレイヤーレベルという数値は、「どれだけそのゲームをプレイしているか」の目安、到達度指標として、おそらくもっとも機能していると考えられる。従って、ゲームデザイン上の機能、ゲームルールとしての利き方について検討し、その必要性を議論することに意味は薄いかもしれない。しかし、プレイヤーレベルに紐づいて変動するゲーム要素がある以上、関連するそれらゲーム機能について論じることにも意味はあろう。
むしろ、本稿では「プレイヤーレベル」という共通仕様を通して、その背景にあるいくつかのゲーム要素について論じることに主眼を置いている。

一般的なスマホゲーにおいて、プレイヤーレベルによって成長する要素には何があるだろうか。最大公約数的には、下記の要素が挙げられよう。
・スタミナ上限
・フレンド数上限
・デッキコスト最大値
また、プレイヤーレベルが上昇するタイミングで、スタミナが上限まで回復するという仕様もスタミナ仕様を持つタイトルにおいて非採用例を見出すのが難しいレベルで一般化していると言える。
しかし、「デッキコスト」と言う仕様は、モンストを境に消滅してしまったように見える。なぜ「スタミナ」が生き残り、「デッキコスト」は消滅してしまったのか。
本稿では、「スタミナ」「デッキコスト」という仕様について、その起源と流れを概観しながら、それぞれの存続性について検討したい。また、「デッキコスト」と言う要素を失った「プレイヤーレベル」の機能性について考察を試みるものである。


スタミナ仕様の機能

スタミナ仕様の萌芽

多くのスマホゲーは、ゲームプレイに際して「スタミナ」というリソースの消費を強いる。これは時間経過と共に回復するが、上限値が存在する数値でもある。
ゲームプレイに際して消費を強いられるスタミナの量は、概ねそのステージにおける褒賞の価値と連動している。より大きい褒賞を得るためには、より多くのスタミナを消費しなければならない。
「ブラウザ三国志」にその萌芽が見られる「スタミナ」仕様であるが(「艦これ」にもその名残が見受けられる)、現在の形で一般化したのはドラコレ以降であろう。
上限のあるスタミナというリソースを消費させることで、連続してプレイし続けることを不可能にし、それ以上の連続プレイに課金を求める、と言うデザインは、集金装置としてのソーシャルゲームを象徴した仕様だったと言える。
ドラコレの時代、ステージ攻略において「失敗」という概念は極めて希薄であった。ボタンをポチくり押して、3G回線を通してサーバに通信を投げることを通じて、スタミナを経験値やアイテム・キャラを交換することがゲームの基本構造だったからだ。
すると、スタミナが上限値まで回復している状態でプレイしないことは、プレイヤーにとって機会損失そのものということになる。これが、スタミナが溢れているもったいない状況を一刻も早く回避したいという動機として働き(「スタミナ溢れ」という言葉に象徴される)、タイトルの継続率に強く寄与した。
ガラケー時代のソシャゲとは、つまるところ「スタミナ溢れを回避するためのライフハック」が、ゲーム仕様によって惹起される、外郭的ミニマムゲームになっていたのである。


スタミナ仕様の変容

時は流れてケータイ市場はスマホの時代となり、ネイティブアプリが登場した。パズドラ革命である。パズドラはそのクローン系のゲームアプリを大量に生み出し、パズドラクローン型デザインのゲームは現在も市場において隆盛を誇っている。
パズドラは、つまるところドラコレに「パズル」と言うミニマムゲームを追加しただけのゲームである。当然、ドラコレのスタミナ仕様も(後述するがデッキコスト仕様も)そのまま継承された。
しかし、ミニマムゲームに「失敗」の概念が導入されると、プレイヤーのゲームプレイはスタミナの欠乏だけではなく、ステージの難易度によっても制限されるようになった。結果、高難度ステージに何度も挑戦し、クリアを目指すというレガシーなゲームプレイが、ケータイゲームでも実現されたのである。スタミナが「褒賞への引き換えリソース」から「ゲーム挑戦権」へと変質した瞬間である。スタミナの回復と失敗時のコンテニューへの課金によって、ゲームセンターにおけるそれと同じ環境を実現した。
この段階においては、プレイ頻度制限つきの無料プレイ+有料のゲーセン的プレイというフレームにおいて、スタミナへの課金を収益源として想定していたに違いない。性能付き絵柄データのガチャに収益を依存するのはリスクが過大であると判断するのは、当時としては妥当と言えよう。レガシーなゲームのあり方を念頭に置くならば、ゲーセン的収益構造の方が健全であるとの考えもあったのかもしれない。
しかし、期せずして始まった課金トークンの大量ばら撒きと、それを呼び水にしたガチャの大量配給は、その射倖性とあいまって、ガンホーに莫大な収益をもたらした。瞬く間に、時代が「ガチャで儲ける」時代に変わってしまったのである。


「白猫プロジェクト」におけるスタミナ仕様廃止とモンストのスタミナ緩和策

パズドラクローン型のスマホゲーが一般化し、市場を支配するに至ると、「黒猫」で確かな地歩を築いたコロプラは、3D表現を導入した「白猫プロジェクト」を満を持して市場に投入した。モンストとは対照的に、「白猫」ではスタミナ仕様を削除した。ガチャで収益を上げられるのであるから、プレイヤーに無用なストレスを与えるスタミナ仕様は削除すべきと判断したのかもしれない。
しかし、この判断はスタミナ仕様の必要性を逆説的に証明してしまいつつある。投下した資本と集めたユーザー数に比して、その失速(売り上げランキングを参照している)はどうしたことか。ゲーム自体が長大で、スマホゲームのプレイ時間とマッチしていないことを加味しても(いまだ磐石たるモンストも、高難度ステージのプレイ時間は長い)、「スタミナ溢れを回避したい」というプレイモチベーションが存在しないことが、大きな要因となっているに違いない。
対して、モンストのスタミナ緩和策はどうか。「1日1回限定のスタミナ消費なしステージ」と「レベルアップ時のスタミナ回復量の上限突破」である。「スタミナ溢れがもったいない」「1日1回タダなんだからやらないともったいない」というプレイヤー心理を衝く形での緩和であることに着目すべきだろう。



デッキコスト

デッキコスト仕様の源流

さて、もう一方でデッキコスト仕様である。
デッキに組み込むキャラクターにそれぞれコストを定め、デッキ全体で総コストの上限による制限をかける仕様である。
かつての格ゲーにおけるレシオシステムにその萌芽が見られるが、直接的な起源は三国志大戦であろう。
三国志大戦におけるカードコストと言う仕様は、筐体の仕様上8枚までしかカードを認識できないことを逆手に取った仕様である。
最低1コストのカードは8枚まで使用でき、強力なカードの導入には最大3のコストにより枚数の制限が付きまとう。このコスト概念がデッキ構成の思考性をもたらし、キーとなる高コストレアカードとそれをサポートする低コストカードの組み合わせという形で思考の筋道を生み出した。プレイごとにカードがランダムに排出されるという射倖性とも強烈に相性が良かった。
ブラウザ三国志が、ガチャ機能と共に三国志大戦から移入した仕様哲学は、ガチャ機能を持つタイトルに脈々と(しかし無批判に)受け継がれた。「コスト1」の意味が失われ、最大コストの必然性もなくなっていたにも関わらず、「プレイヤーレベルの上昇に意味を持たせる」というだけのために、「せっかくガチャで引き当てたレアカードがコストオーバーで組み込めない」という状況を頻発させていたのである。

モンストにおけるデッキコスト廃止の功績

別稿で指摘したとおり、スマホゲーの顧客満足性は「ガチャでレアを引き当てる」ことにほぼ依存している。
しかし、初期スマホゲーにおけるデッキコスト仕様は、いつしか「枚数とのトレードオフ」という本来の効果を失ってしまっていた。当たりカードはなるべく使えるようにしてあげたい、という動機があったのだろうが、中途半端な小手先の調整で済ませてしまい、仕様の有用性を根本的に検討する労を怠ってきたのである。
形骸化し、むしろ有害な存在ですらあったデッキコスト仕様が、無批判・思考放棄的に採用され続けてきた歴史に終止符を打ったという点でのモンストの功績は計り知れない。
モンストを見て、「あ、コストってなくても良いんだ」と気付いたデザイナーは多かろう。だが、そこを検討するのがデザイナーの責務だ。「あ、コストってなくても良いんだ」と気付かされたデザイナーは、自らの無思慮・無批判を猛省する必要があろう(自戒を込めて)。



おわりに

さて、スタミナとデッキコストという二つの仕様の効能について検討した上で、プレイヤーレベルという仕様に立ち戻ってみよう。
モンストにおいては、一定レベルを超えると、ランクアップによっておきることが「スタミナが全快する」だけになってくる。これは、デッキコスト仕様を削除した代替の仕様を導入しなかった(できなかった)故の弊害だろう。野放図にスタミナ上限を増加させ続けることは、スタミナ仕様の有効性を殺すことにもなる。
一方で、モンストは上述のスタミナ制限緩和と時を同じくして、保有キャラインベントリの上限の大幅な緩和も行なっている。
http://www.monster-strike.com/news/20161004_3.html
これは、保有数上限によるストレス、保有数不足がガチャの意欲を殺ぐことなどを勘案してのものだろう。
キャラ保有数上限は、野放図なキャラ入手によって保有キャラが管理しづらくなる(どこに何があるのかがわからなくなる、など)ことへの抑止の意味もあるため、初期段階において無料での無制限拡張には慎重だったものと思われる。デッキコストにメスを入れておきながら、キャラ保有数の仕様について検討していなかったとは考えにくい。
しかし、ここにきてキャラ保有数の上限を緩和してきたと言うことは、ここにも課金インセンティブを求めなくてよいということの証左でもある。
これからのスマホゲーは、心あるデザインであるならば、これを踏まえて「ランクアップ時のキャラ保有上限数拡大」使用を導入してくるものと思われる。

 

スタミナ仕様はプレイヤーの「もったいない心理」を上手くくすぐる形で洗練を見た「良い」仕様と言えるが、デッキコスト仕様は「枚数とのトレードオフ」という機能を失った時点で本来の意義を喪失してしまった「ダメな」仕様であると言える。

 

本来、プレイヤーにとってのストレスはその解消によって達成感をもたらすものであるが、であるが故にその取り扱いは慎重に考えるべきであろう。

「良い」としたスタミナ仕様であるが、その解法はゲームの外側(すなわち実生活時間)にある。ゲームの外側に攻略性を持たせること(課金も然り、である)を邪道とするならば、スタミナ仕様もやはり邪道ではある。

であるが故に、私自身のレガシーなゲームデザイン哲学が、「スタミナシステムはほんと糞」という(一部の)プレイヤーたちの叫びに共感してしまう部分も否定できないのである。