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シン・ゴジラの感想 その4 【エヴァっぽい問題など】

ネタバレ満載でお届けする、シン・ゴジラ感想記事シリーズ。

 

・棒読み早口問題

邦画(というか、日本語ドラマ全般)って、視聴者にセリフを認識させるためにすっきりはっきりモノをいうじゃないですか。聞き取れないような早口厳禁。
しかし、シン・ゴジラでは、このタブーをぶち壊してきました。そうです。これがリアリティです。
頭の回転が早い人ほど早口です(※個人的な意見です)。なぜ早口になるのか。それは、思考の早さに言葉が追いつかないからです。人と人との間でデータを伝達する速度という意味において、言語による音声通話が最速のインターフェースなのですが、演算装置の速度にデータ転送量がどうしても追いつけない。でも、状況的に一刻も早く伝達したい。その情念が人を早口にさせるのです。
この演出は、日本でも屈指の頭脳を誇るという設定のキャラクターたちに、この上ないリアリティを与えていると考えるべきでしょう。
 

・市川実日子

 

genzui.hatenadiary.jp前回の記事で石原さとみを礼賛してしまったわけですが、この物語のヒロインは間違いなく市川実日子です。半減期がとても短いことに、素直に喜んでいる姿は、彼女の愛らしさが溢れ出るすばらしい演出です。

 

・エヴァっぽさ①:例の曲 問題

エヴァ曲を使ったことに対して「エヴァっぽくなった」という意見を見かけます。まぁ、私も筋金の入ったエヴァオタだから気持ちは判る。けど、「踊る大走査線」という前例があるじゃないか。ある種、緊迫した「状況」を表現するためのアイコンと化しているわけですよ、例の曲は。あれをエヴァだ、とするならば、「踊る」も、その他あの楽曲を使ったすべての映像もエヴァなのか、と。庵野さん自身、「エヴァ」の例の曲を使うことに、ためらいはあったかもしれません。が、結果的に、あのシーンにもっともふさわしい曲を、と選曲したら、必然的に例の極でしかありあえなかったのではないでしょうか。
思春期にエヴァを刷り込まれているわけではない、非エヴァオタの人にとっては、案外スンナリ受け入れられる選曲だったんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうか。
 

・エヴァっぽさ②:トータルな雰囲気がエヴァっぽい 問題

エヴァオタがシン・ゴジラを見て「エヴァっぽい」と感じるのは仕方がないことです。
第一に、庵野秀明監督作品である、と知っていて観ているわけで。そりゃ、先入観バリバリで観たらエヴァっぽくも観えるわ、って話ですよ。
第二に、そもそものエヴァが「ゴジラっぽい」んだから、その魂の上に作られたゴジラの新作が「エヴァっぽく」なるのは当たり前なんじゃないの、という。
54年版ゴジラを慌てて観たわけですけれども、「あー、エヴァっぽい」と思いましたもん。時系列からしたらエヴァが「ゴジラっぽい」というのが、やはり正解なんだろうな、と。
 

・エヴァっぽさ③:ラストシーンのアレ

こればかりは私も。確かに、ラストシーンのアレは私も「庵野さんの悪い癖が出たなぁ」と感じたわけですが。
だがしかし、ラストシーンのアレを例示して、シン・ゴジラのエヴァっぽさを批判する人を観ると、なんだかなぁ、とか思うわけです。
そもそもエヴァっぽさが批判として適切なのかという問題はさておき、そういう表層だけで論評されると、「あれ、この人、ちゃんと観てたのかしら?」という気分になります。そうすると、もうその人のいうことを聞く気になれなくなるので、もったいなぁ、と思いました(粉みかん)。
 

・エヴァっぽさ④:「巨神兵」じゃん 問題

「巨神兵」って、アレですよ、特撮博で上映されたショートムービーのヤツ。劇場晩エヴァで併映されてたヤツ。
これは同意。破壊アクションはかなり似ている。似ている感がある。
 
シン・ゴジラを観たときに、「ああ、『巨神兵』は観るんじゃなかった」と、ふと思ってしまった自分がおります。
「巨神兵」があったればこそ、シン・ゴジラが生まれたのだという背景は充分理解できるのですが、アレを観ずにシン・ゴジラを観ることができていれば、どれほど感激できただろう、と。
いわば、「巨神兵」はシン・ゴジラの特撮大破壊シーンのパイロットフィルム、プリプロダクションだったわけですよ。「シン・ゴジラ」という視点で見ると、あれは単なる「未完成バージョン」に過ぎない。
ノンCGの特撮での限界表現に挑戦したからこそ、CGでそれ以上のものを作りえたのでしょうが、皮肉にもシン・ゴジラが実写特撮に止めを刺してしまったような気がしてならないわけです。
 
 
 
 
 
 
 
 
(おまけ)感想文の感想文
 
 
私がシン・ゴジラを好きなのは、まさに、こういう人のいない理想の世界なんですよ。
 
自分の思惑を優先するあまり、視野が歪んでいる。
あの描写のどこが緊急事態法制の必要性を訴えているのか。
逆に、そんなものなくても必要ならば必要なことをやる(やれる)ので、法整備の必要なんてない、とまで読める展開じゃないですか。
 
課題設定が「自分」にある人はどうしても事実を歪める。出力時に歪めるのではなく、認識・入力の時点で歪んでいる。
課題が「外」にある場合、「自分」がどう思うのかは関係ありません。完全に自分を殺して考えることが出来る人間などいない中で、いかに自分を殺して考えることが出来るか。問題がある中で、その現状を変えたいのであれば、自分の眼鏡から「自分」(思惑や本能)による歪みや曇りを可能な限り取り除くところから始めなければならない、と強く思う自分なのであります。
 
 
勝手に子供向けでないと思い込んでましたが、相当に子供向けだったりもするんですねぇ。
確かに、自分が子供のころ、オネアミスを観て喜んでたじゃないか、みたいな記憶も呼び起こされた次第。
 
 
 
 
 
…というわけで、観れば観ただけ、だらだらと感想文を書けてしまう、その力がこの映画の真の恐ろしさなのかもしれません。