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ゲームとかの話

ゲームを中心としたヨタ話

シン・ゴジラを語る上で避けて通れない問題 【石原さとみ問題:Satomi Ishihara probrem】

さて、石原さとみである。

 
シン・ゴジラを語る上で、常に問題となるのが、石原さとみである。この作品のほかの要素から、明らかに「浮いている」からである。
ここでは、シン・ゴジラにおける「石原さとみ問題」をいくつかの項目に沿って論じてみたい。
 
・設定ガバガバ問題
・ガッズィーラ問題
・色っぽすぎる問題
 
 
 

▼設定ガバガバ問題

 
シン・ゴジラにおいて、石原さとみは米国特使として登場する。日本の防衛にまつわる問題を扱う本作において、米国というファクターは極めて大きな意味を持つ。それを体現するキャラクターを演じるに、存在感と演技力を持つ俳優を充てることに全く異論はない。
俳優としての存在感、演者の「格」から、必然的に想起させられるキャラクターの重要性などを定量的に考えれば、石原さとみは合格である。むしろもったいないくらいともいえる。
だが、日本一の(控えめに言っても日本を代表する)美女が米国特使なのである。この違和感を、我々はどう考えるべきなのか。
 
米国のエスタブリッシュたる上院議員の娘で、大統領も目指せるという出自・来歴を持つ人物。在日米国大使がケネディ家の人間である現実に照らしても、米国特使としてのリアリティは充分である。しかし、そのエスタブリッシュに日本人の血が混じっているのである。ビジュアルからすれば、ほとんど日本人だ。違和感の第一はここにある。
 
そして、果たすべき責務に対する年齢問題が違和感の第二だ。石原さとみは美人過ぎて、どう高く見積もっても30そこそこのお姉さんにしか見えない。同盟国の存亡に関わる折衝の中心的役割を演じるには、キャリアが足りなさ過ぎはしないか。
 
こう考えると、リアリティにこだわる庵野監督が、制作陣に押し切られた数少ないポイントの一つだったのではないかとも邪推される。
 
しかし、私は敢えて断言しよう。
 
石原さとみなら、そんな細かいことはどうだっていい。
 
どうだっていいのである。石原さとみは正しいか誤っているかなどの判断を超越する存在なのである。
我々は、シン・ゴジラという奇跡の映画に石原さとみを登場しているという事実をただただ感謝していればそれで良いのである。
 
 

▼ガッズィーラ問題

 
カヨコ・パタースンは、しばしばルー語を操る。英語と日本語の混交文だ。この安っぽさはどういうことであろうか。
全セリフを英語でしゃべらせても良かったとさえ思える。もしくは、「公式」の発言を英語で、「私的」な発言を日本語で、というように、明確に使い分けさせることもできたハズである。そういう硬さは、キャラクター設定を補強することはあれ、デメリットがないように見えるのである。
ルー大柴的な台詞回しは、作品の緊張感を一挙に失わしめる。庵野監督はいかなる意図であのセリフ・演出をつけたのか。
 
しかし、私は敢えて断言しよう。
 
石原さとみなら、そんな細かいことはどうだっていい。
 
どうだっていいのである。石原さとみは正しいか誤っているかなどの判断を超越する存在なのである。
我々は、石原さとみの口からつむがれる言葉をただただ福音として拝聴していればそれで良いのである。
 
 
 

▼色っぽすぎる問題

 
以上見てきた議論が、石原さとみ問題を象徴している。
つまり、石原さとみであるが故に、すべてが許されてしまうのだ。
真の石原さとみ問題はここにある。石原さとみが色っぽすぎて(「かわいすぎる」でも「美人すぎる」でも良いが)、その辺縁にある作品上の瑕疵(と思えてしまう事象)について、正しく評価できなくなってしまうのだ。
 
 
 
 
 
……というわけで、この辺り、石原さとみの魅力に幻惑されずに論じることができる方(果たしてそんなものが存在しうるのかについて、筆者には全く懐疑的であるけれども)に、所感をうかがってみたいものである。