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ゲームとかの話

ゲームを中心としたヨタ話

【ゲームデザイン研究序論4】先行研究・重要概念の整理 その1

もう少し推敲したかったんですが、ネタが無さすぎるので、見切り投稿です。


▼ 先行研究

これまでのゲームデザイン研究において、ゲームデザイン全般をカバーする理論体系のようなものは非常に抽象化された概念的なセンテンスとしてしか語られてこなかった。なぜならば、デジタルゲームがコンテンツとして非常に多彩な要素を包含しており、すべてを説明しうる理論などは存在しえないからだ。従って、「ゲームデザイン」の包括的な在りようを論じているようでいて、特定ジャンルの特定のデザインをしか説明できていないような言説のいかに多いことか(自戒を込めて)。
しかし、「全て」を説明しえなくとも「比較的多くの場合」に適用しうる研究はいくつかなされている。
本章では、この先の研究における前提として押さえておくために、有用な先行研究や重要と思われる概念をいくつか取り上げる。

●「ジレンマ」と「判断性」

ゲーマーはしばしば「ゲームになってない」「作業ゲー」という批判を行なう。これは何を表すか。判断性が存在しないか、存在しても希薄であるということを指摘している。
彼らは、「あのときこちらを選択していれば成功していた」「あの時のこの選択が失敗の原因だった」という、プレイヤーの選択によって説得力のある結果の変化を求めているのである。
ゲームは、判断と選択の無数の積み重ねで構成される。プレイヤーにとって「自明」な選択も多い。しかし、面白いされるゲームは、悩ましい選択(ジレンマ)を適切に導入している。「どちらを選択すればいいのか」を与えられた情報を元に判断し、選び取っていく。そして良い選択がプレイヤーにとって好ましい結果をもたらし、悪い選択が好ましからざる結果をもたらす、というゲームの論理性の上に、達成感は得られる。ゲームは達成感を感じるためのコンテンツである。
良い「ジレンマ」とは何か。「正解」が隠蔽されている(自明でない)こと。「今、判断を求められている」ことに気付けること。判断に必要な情報を提示しておくこと。結果に必然性があること。と言ったあたりだろうか。
・正解が隠蔽されていること
 自明な正解がプレイヤーに提示されていたならば、それは判断ではない。指示された通りに操作する、ということを超えるものにならない。したがって、正解は隠蔽されていなければジレンマたりえない。
・今、判断を求められていることに気付けること
 強そうなモンスターが見えた、次に落ちてくるぷよが赤赤だ、などと言ったタイミングで、プレイヤーはどの手を打つか考える。考えた末に選択する。意図して選択しなければ、その選択が正しくとも達成感は得られないし、意図せず行ってしまった選択が誤っていた場合「理不尽」と感じる。
常に判断を求められている、という緊張感の演出として、ダンジョンにはトラップが設置される。しかし、この濫用は「理不尽感」を喚起しかねない。「理不尽である」と感じとき、多くのプレイヤーはそのゲームをやめてしまう。
・判断に必要な情報の提示、結果に必然性があること
炎の剣とイナヅマの剣がある。どちらも強そうだし、カッコいい。どちらにも伝説的な曰くがついている。しかし、目の前にいるモンスターと戦うのにどちらの剣を手に取るべきなのか。これを判断するためには、情報と知識が必要だ。「攻撃力」であるとか「攻撃属性とその相性」であるとか「モンスターの防御力・属性」である。これがわからなければ、「ただ何となく炎の剣で戦って負けた」ということになる。これでは悔しくない。理不尽である。プレイヤーに提示される選択肢には、必要な情報が開示されている必要があるのだ。
必要な情報が開示されていなければ、その結果に必然性は生まれない。必然性のない失敗には理不尽感が付きまとうし、必然性のない成功には達成感は生まれない。鋼鉄で鎧われているメカに炎の剣で斬りかかったとて、それが有効たりえるように見えるだろうか?電気系統的な物にダメージを与えられそうなイナヅマの剣の方が、どう見ても有効に思えるだろう。現場では頻繁に「説得力」という言葉が飛び交う。グラフィック・動作・挙動、全てが「説得力」に関わる。ゲーム製作者は、説得力を作っているのだ。

●「操作性」という問題

近年はあまり見なくなったが、プレイヤーの「判断」を「実行」するにあたって、「操作が難しい」ゲームがいくつも存在した。「思い通りに操作できるようになった俺うめー」である。「鉄騎」がその極北である。
これは、かつて存在していた一つの達成感だ。しかし、今はほぼ絶滅してしまった。多くのプレイヤーは、職人的熟達を踏まえずに、「判断」し、「選択」したいのである。ハードウェア構成の制約によって、プレイヤーに職人技的熟達を強いねばならぬことにゲームの本質はない(少なくとも自分たちが目指すものはそこではない)、と考えるデザイナーもいるだろう。正論と言える。
しかし、世の中には「職人技を極める」ことそのものを追求するジャンルが存在する。そう、音ゲーである。
特定のタイトルを指して「こんなものはゲームじゃない」といった批判・非難を目にすることがある。だが、音ゲーを指して「ゲームになっていない」という声は聞かない。この事は、「操作性」もゲームを構成しうる要素(すなわちゲームデザイン)であるということを強く示唆している。