ゲームとかの話

ゲームを中心としたヨタ話

スターウォーズの季節ですね

 

生存報告がてらクソ記事を。

 

子門真人と聞いて、ビジュアルを具志堅用高でしか思い浮かべられない私ですが。

 

 

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風邪ひいて脳機能が低下している、ということでなにとぞご容赦を。

【良いことっぽいことを言う】人生の例えとして……

人生を、歩くことに例えて、「下を向いていないで、前を見て歩けば、チャンスを見逃さない」という主旨の発言をする人がいる。

だが俺は言いたい。

下を見ずに、前だけを見て歩けるのは、障害物のない、舗装された道を行く、ごくわずかな恵まれた人だけである。

未舗装の獣道を行く俺たちが、足元も顧みず前だけを見据えて、どうして転ばずに歩けるというのだ。

 

俺は言う。ちゃんと足元を見ろ。だが、前も見ろ。

下だけ見ていては、行く先を見定めることもできないからだ。

歩むに下を見、立ち止まって行く先を見渡す。

人生はこの繰り返しだ。

 

今、お前はどうしている?

足元を見据え、険しい道を歩んでいるか?

それとも周囲を見渡し、行く先を見渡しているか?

 

もし、しばらく立ち止まらずに、足元を見て歩み続けてきたならば、一度立ち止まって、周りを見渡してみても良いかもしれない。

進めてきたその歩みは、お前をどこに運んできたのか。たまには確かめてみるが良い。

 

もし、前だけ見てきたなら。そして何にも躓いて来なかったのなら。

お前は一歩も歩いていなかった可能性がある。

自分の中に、障害のない舗装道路を歩めるだけの特別な何かの心当たりがないならば、その可能性はきわめて高い。

 

 

 

 

 

 

 

超メモ

単なる思い付き

 

ちくわキュウリのキュウリを漬物のキュウリにしたらどうなるんだろうか。

食感はいいが味にパンチがなかったちくわキュウリも、アガりませんかね。

 

 

 

やっとこさ

オタを語るからには観ておかねばならない作品っていくつかあると思うんですが。

その一つに数えられてるんじゃないか、ということで。

選挙に行くのが憂鬱だった逃避で、全話観たわけです。「まどか☆マギカ」。

 

ああ。これは観ておかないといけない気がします。好きか嫌いかはともかく。

虚淵玄が好きではなくて、食わず嫌いだった私でしたけれども、確かにこれは名作なのだな、と。

ファントムを勧められてやった時、勧めてきた人間が嫌いだったのでつられて嫌いだったのかもな、とか思いましたが、まぁ、やっぱり虚淵玄はなかなか好きになれない。

 

というか、シュタゲの志倉千代丸もそうですが、ものすごいどんでん返しでどや顔されてる感が気に食わない私なのでした。

 

つーか、ミステリー全般に、どうしても「作者のドヤ顔」を感じでしまい、好きになれない私なのでした。

 

 

 

短信:思ったこと

人がルールを作り、参加者が勝利を目指して競うものがゲームとするならば、選挙というのはかなり歴史が古く、この世に存在する者の中でも最大級のゲームなんだろうな、と。

可能行動がルールでがんじがらめ、というのも、かなりゲームっぽい。

 

ゲームとしての規模の大きさで言えば、市場取引のほうが大きいかもしれません。

株とかFXとか。

ITと資本主義が融合してしまうことのエゲツなさ (知性の価値の低下と不幸感の増大)


人間の幸福感が、他者と比較して優位にあること(比較優位性)に大きく依っているものである、という、ある種「人間の醜い本性」を認めたとき、社会を覆っている(と言われている)閉塞感の正体の輪郭が、僅かなりとも明瞭になるのではないか、と思った話。

「いじめ」だとか「差別」だとかもそうであるけれど、そういう人間の醜い本性を「矯正し排除する」というアプローチではなく、「仕方のないもの」として受容し、「いかにうまく付き合っていくか」「どうやってインセンティブをコントロールしていくか」を前提としてうまく社会機構をデザインしていくアプローチで仕様を組んだほうが、結局みんな幸せなんじゃないの、と思った次第。

 

▼ 情報化による「知性」の価値低下

産業革命以降、資本や労働力を集約することによって、資本や労働によってもたらされる富が、資本や労働力のボリュームに対して加算的ではなく乗算的に利く時代となった。
故に、社会は資本や労働力を集約させようとし、資本や労働力の集約こそが社会や国家を生存させるための唯一の手段と目されるようになった訳だ。

集約された資本や労働力は、等比級数的な富の増加をもたらすと共に、その管理の為に加算的に情報処理能力をも必要ともした。
情報処理が電子化されていない時代、これは全てマンパワーおよび紙と鉛筆(・あるいはそれに加えてソロバン)によって賄われた。情報処理装置としての人間に対する需要は大きかった。(コンピューターなしで戦艦大和を設計し得た時代が存在したことを思い起こすと良い。)

この需要は「学問」「教育」という観念と共に、近代の教育制度に組み込まれ、情報処理という文脈において一定の質と量を持つ人間の大量生産というシステムに行き着く。
集約された資本と労働力を管理するために必要な知的能力を学力試験という形で判定し、選別する。
このフォーマットは、また一方で、救貧という側面からも有効であった。
「勉強さえできれば、生まれに関係なく大きな組織の要職に就きうる」という機会の提供でもあったからだ。
そしてこれは「比較優位に立ちたい」という人間の本能にも適うシステムであった。

情報収集・分析・推論・意思決定、と高度化していく知的プロセスは、「管理職群」としての情報処理機構のピラミッドとも合致した。組織運営のための情報処理プロセスが、地位やそれに伴う収入の階層と結び付けられ、組織の出力の最大化と共に、組織内での出世競争をもそのインセンティブとしながら、高度な発展・洗練を見ることになる。

我々は、未だそのシステムの中にいる。

しかし、情報技術の進展(IT化)はこの状況を覆してしまいそうである。
組織運営のための情報処理は、その下層から順に電子化された情報処理装置に置き換えられている。

IT系の技術者は嘯く。
「この技術により、人間は人間にしかできない創造的な営みに知的労力を割くことができるようになるのだ」と。
しかし、彼らの言う「創造的な知的営為」を営みうる人間などごく僅かしかいない。
ともすれば、その技術者ですら「創造的知的営為」などできないのだ。

結果、この巨大な社会を維持するために生み出された中位の知的労働層は、その存在価値を急速に失っている。

比較優位性と同期していた社会的階層は、その根拠たる情報処理能力・知的処理能力(わかりやすく言い換えれば「頭のよさ」)の価値喪失によって、その存在価値を失いつつある。

底辺高校の卒業生と、中位の大卒者との間に存在した(知的)労働力として価値の差は、もはやなくなっている。
彼らの仕事は上位の大卒者がパソコンに向かって一人で処理できるようになったからだ。
5~10人に1人程度の頭の良さに、資本主義システム下における労働力としての価値は、もうないのだ。
「多少頭が良くても、金持ちの家に生まれなければあまり意味がない」という時代はもうすぐそこに(もしくは一部の業界ではすでに)来ている。

 

▼ 情報化による「不幸感」の増大

ほとんどの場合、人間は比較することによってしか、自らの価値を推し量ることができない。
古来は所属する組織の強さと、組織内における地位がそのラベルであったろうし、戦後日本においては「学歴」もその指標のひとつであったろう。現代においては「年収」という数値がそれに当たるのかもしれない。

知的能力(とされる)ものによって測定され、決定されるこれらのラベルによる階層が、「人としての価値」の大部分を評価する基準となっている。
しかし、情報処理能力のピラミッドが崩れ去り、上位のラベルを持つ人間が相対的に希少なものとなっているにもかかわらず、その存在感はむしろ増大している。
「希少性によって目立つ」という文脈ではなく、情報化による周知性という文脈において。

情報化以前は、インターネットに依らない狭いコミュニティの中で、見えない社会の巨大なピラミッドから切り取られた小さな「比較優位」のみが可視化されており、それが幸福感の得どころとなりえた。
年収1000万を超える人がドヤ顔で語る絵面を、我々は嫌でも眼にする。彼らとの人間関係を基準にマウンティングする輩も後を絶たない。しかし、そういう人たちとは、我々は縁を切る。疎遠になる。
オフラインの狭いコミュニティであればそれが可能だ。
しかし、インターネットは個々人の視界を大きく広げ、それまで可視化されていなかった巨大な比較優位の存在を知ってしまった。
さらには見たくなくとも(主にそれを煽るような、怪しげな広告の洪水によって)嫌でも目に入ってくるようになってしまった。

オフラインコミュニティの中の小さな比較優位がかき消され、全体の中での巨大な比較劣位を強烈に意識させられるのだ。これを不幸と呼ばずしてなんと言おうか。

情報処理の脱労働化によって中間層が崩壊し、いまや圧倒的多数が「比較劣位」の地位にある。このコントラストは世代が若いほど顕著だ。
この流れは止まるまい。今、「若い比較劣位層」が声を上げ始めた。時と共に優越感と劣等感のコントラストが強い世代が増えていくにつれ、この軋轢はその圧力を強めるに違いない。

これを緩和していくことは非常に難しい。
人は何によって「優越感」を感じるか、「比較優位性」を感じるか、を考えねばならない。
そして、個々人にとって、有意な価値基準において、社会的に相当な「高位」に立っていると思える(思い込める)何かをもたせなければならない。

「価値観の多様化」というキーワードはひとつのヒントなのかもしれない。
昨今eスポーツについて喧しく話題に上っているが、あるいは「特定のゲームがめちゃくちゃ上手い」という比較優位性を「有意な価値観である」と思えるものに昇華させていく為の、ひとつの方法論たりえるのではないか、という面持ちで、私はこれを眺めるのである。

実際にその価値観は何だって良い。ツィッターのフォロワー数でも、フェイスブックの「いいね!」の数でも、パズドラのランクでも、ポケモンの図鑑数でも、「エヴァを読み込みまくって、独自のレベルの高い読解を持っている」でもかまわない。
大事なのは、その指標を「有意なもの」として、本人が信じられるかどうか、なのだ。

そう考えると、「どうせゲームでしょ」と言うような負け惜しみは禁物である。
古いオタク界隈では、「人が好きなものを否定してはいけない」というマナー(あるいは不文律)の形を取って、本能的にその類の「本人が信じている価値基準そのものの否定」を禁忌としてきたように思われる。


多様な価値基準を認め、自分のあずかり知らない他者の価値基準は極力尊重する。これこそが社会全体の絶対幸福量の増大につながるのではないか。


だがしかし、インターネットには、「どうせ役に立たない」という色彩で語られる形でこれを阻む言説にも溢れている。本当に余計なお世話だ。

 

 


おまけ


まさにネトゲゲームデザインは、システムサイドとして好まざる行動であっても「プレイヤーはそういう仕様だったらやっちゃうに決まっているのだから、問題が起きないように仕様を組むべき」という前提に基づいて磨き上げられてきました。
その結果として、トレードシステムは廃止された訳ですけれども。RMTの問題は、ネトゲ界が未だに克服できていない「人間の不都合な本性」に近いといえるでしょう。

 

口唇口蓋裂の俺的理解

引き続きコウノドリを観ているんですが。

口唇口蓋裂の話が出てきたので。

モーニング連載時にググったような気もする。もしくは人体の部位の名称を調べた時に引き当てたのかもしれません。

 

口唇口蓋裂

発生段階において、口腔と鼻腔がつながっている物が、左右から埋められていく過程があるそうで。それがコンプリートしなかったのが、口唇口蓋裂。私はそういう理解。

 

鼻の下、というか、上唇の上、というか。

なんか溝があるじゃないですか。みんなの顔面。

これはその名残で。この溝のことを一言で示す名詞ってないんですかね。「ほうれい線」みたいな。

まぁ、これを「鼻の下」ということにしましょうか。

 

で。

 

口唇口蓋裂って、この「鼻の下」が「生まれつき、ものっそい深い」という個性である、と理解しています。

ものっそい包茎が神聖包茎なのと同じニュアンスなんじゃね、というか。

手術して直せばいいじゃん。みたいな。

 

 

 

まあ、今日の更新が多いのは、今まさにモンストがメンテ中だからなわけなんだけれども。